お知らせ

会津若松市戊辰150周年の協力企画として、当館でささやかですが記念誌を作成しました。 「早川喜代次と白虎隊」(B5判 36頁 税込200円) 当館の窓口での販売のみとなります。ご了承下さい。

平成29年12月

白虎隊とは

会津藩の藩祖、保科正之(ほしな・まさゆき)公は、徳川二代将軍秀忠の子で、「家訓十五箇条」を残し、代々受け継がれていました。そこには徳川将軍家に忠勤をつくせとの文言もありました。三代藩主正容(まさかた)公の時に、松平姓を名乗るようになり、会津松平家は「御三家」につぐ「御家門」という家格を持っていました。

幕末、江戸幕府の力が衰えると、京都の治安の回復のために「京都守護職」が創設され、会津藩に白羽の矢が立ちました。藩内では「薪を背負って火を消しにいくようなもの」と反対意見が多数をしめ、九代藩主松平容保(まつだいら・かたもり)公も固辞していましたが、幕府の重臣達は強引に会津藩に引き受けさせました。会津藩は倒幕勢力の矢面に立たされてしまったのです。(文久2(1862)年)

慶応4(1868)年1月、ついに「戊辰(ぼしん)戦争」という国内を二分する大きな戦争になりました。薩摩、長州藩などの新政府軍と、会津、桑名、庄内藩などの旧幕府軍との戦いになりました。

会津藩の軍制は、当時交流のあったフランスの軍制に習い年齢別に編成され、中国の故事で「方角の守護神」とされていた空想上の動物の名前、玄武(げんぶ)、青龍(せいりゅう)、朱雀(すざく・しゅじゃく)、白虎(びゃっこ)を隊名につけました。(この「四神」は奈良県のキトラ古墳の壁画に描かれていたことで近年有名です)

玄武隊(50歳以上)、青龍隊(36歳から49歳)、朱雀隊(18歳から35歳)、白虎隊(16,17歳)に大きく分けられ、さらに身分により高い方から、士中(しちゅう)、寄合(よりあい)、足軽隊に分けられていました。

「白虎隊」は約340名おり、身分により「士中一、二番」「寄合一、二番」「足軽隊」の5隊に分けられていました。この中の「士中二番隊」42名が、慶応4年8月23日(太陽暦では10月8日相当)に、猪苗代湖近くの「戸ノ口原」で戦いましたが退却を余儀なくされ、うち20名(人数には諸説あり。他所での戦死者も飯盛山での自刃(じじん)者に含まれている模様)が、飯盛山に逃れてきましたが、城下で発生していた戦火を見て、もはや会津に勝ち目無しと思い、敵の手にかかるよりはと、自刃したのです。(理由には諸説あり)元号が明治に変わる16日前の出来事でした。

この時、飯沼貞吉だけが地元の人に助けられたため、この話が全国的に有名になりました。(「白虎隊」全体では85%にあたる290名が生き延びています)その後、籠城戦を1ヶ月戦いましたが、最終的には会津藩は降伏しました。

飯沼と同じ「士中二番隊」の隊士であった、酒井峰治(さかい・みねじ 1853〜1932)の手記が近年発見されましたが(展示品案内参照)、酒井は生前当時のことは、家族にはほとんど話さなかったそうです。彼らは少年の日の深い心の傷を終生抱えていたのでした。

 

「士中二番隊」の行動については、生き延びた当事者の証言に食い違いが多い上に、当事者が明治中期以降の「白虎隊」に対する世間の評価に配慮している節があることから、現時点では断定的な物言いは避けるべきと、当館では考えています。

研究家やマスコミの方には、「真実」「真相」という言葉を軽々しく使っていただきたくありません。紙に書かれていることが、全て事実とは限らないのですが、一部の方には理解していただけないのが残念です。なお、原新太郎と原マ三郎は別人です。(明治時代の名簿に別々の住所で載っています)

個人的には、「辰のまぼろし」(柴五三郎著・会津図書館蔵)の記述が、一番事実に近いのではと考えていますが、、。大人の将校は戦況不利と判断し、早い段階で退却命令を出したものの、納得がいかない一部の隊士が反抗したために、途中でバラバラになったのではないでしょうか?

そもそも、斥候に出ていた原田克吉以外の大人の将校4名全員が、戦闘開始時に部隊を離れていたとは考えにくいですし、「士中二番隊」が単独で、敵の大軍を真正面から迎え撃つ話は無理があります。街道を挟んでの、友軍との連携を考えるのが自然です。誰の証言を信じるかは、人それぞれでしょう。

 

飯沼貞吉が東京に護送後、長州に連れて行かれたという話も、懐疑的に見ています。東京で謹慎している会津藩士の「人別」を、会津藩士・山田善八が、明治2年11月に書き写した文書が当館にありますが、山田が謹慎していた護国寺のところに、飯沼時衛と貞吉の名前があります。

山田がその場にいない人物の名前をわざわざ書くとは考えにくく、脱走人の名前は別になっていますので、飯沼貞吉は父親と一緒にずっと東京にいた可能性があり、あの話を事実と断定してしまうのは、いかがなものでしょうか?

現地には450万円もかけて立派な記念碑が建てられたそうですが、人違いの可能性は無いのでしょうか?ご子孫の方の顕彰活動に口を挟むのは心苦しいのですが、あまりにも当館に問い合わせが多いため、一言書かせていただきました。ご容赦下さい。

 

 

ご挨拶

「白虎隊記念館」は昭和31年4月22日に、会津若松出身の弁護士であった故・早川喜代次(はやかわ・きよじ 1903〜1999)によって創立されました。戊辰戦争における、「白虎隊」をはじめとする会津藩の悲劇を後世に伝えたいという思いから、私財を投じて作られました。

しかし、まもなく水害に遭い建物は倒壊。途方に暮れていたところ、全国の皆様から多大なるご支援を賜り、当館は再建されました。その後も皆様から貴重な史料の数々のご寄贈やご支援を賜り、昭和59年には鉄筋コンクリート造り2階建ての建物に改築され、現在に至っています。

早川喜代次は平成11年に逝去しましたが、役職員一同、故人の遺志を引き継ぎ、当館の運営のため努力して参ります。今後とも皆様のご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願い申し上げます。

 

地元の方にも誤解されがちですが、当館は個人が創立し、後を引き継いだ民間人達で細々と運営している小さな史料館です。若松市内の大型観光施設のように、行政や地元の有力企業がバックについているわけではありませんので、運営資金は限られていますし、この業界は弱肉強食の世界ですから、同業者から模倣されたり、嫌がらせを受けることもあります。

また、近頃のマスコミや観光行政の担当者は、歴史よりも日本酒やネコの駅長の方が、今の福島県にとっては重要だと考えているようで、特番や観光パンフレットを見るとガッカリします。色々なところで忖度が働いているようです。

改めて申し上げるまでもなく、今日の日本の社会は多くの先人達の犠牲の上に成り立っています。「暗い話はちょっと」「未来志向ですから」と言って、過去の日本の歴史から目をそむけることは、先人達に対して大変失礼な話です。大人には次の世代に歴史を伝える責任があります。

このように、日本人の価値観が様変わりする中、当館としてはパネル印刷や作り物とは違う、本物の史料の価値がわかっていただける全国の歴史ファンの皆様に、少しでも足を運んでいただけるように、地道に努力するしかありません。

なにぶん、東日本大震災・原発事故を境に入館者数が半減しており、大幅な赤字決算が続いているため、皆様のご要望にお応えできない点が多々あるかと思いますが、今後ともよろしくお願い申し上げます。