お知らせ
「会津若松市戊辰150周年」の協力企画として、当館でささやかですが記念誌を作成しました。 「早川喜代次と白虎隊」(B5判 36頁 税込200円) 当館の窓口での販売のみとなります。ご了承下さい。
戊辰戦争150周年にあたって、広報担当者がおすすめの書籍です。↓
『江戸幕府崩壊 孝明天皇と「一会桑」』 (講談社学術文庫) 家近良樹 (以前は文春新書から出ていましたが、版元が変わったようです)
『攘夷の幕末史』 (講談社現代新書) 町田明広
『幕末維新消された歴史』 (日経文芸文庫) 安藤優一郎
いずれもアマゾンで購入できます。学校の授業で習っていた幕末のイメージが変わります。未読の方はこの機会にぜひ。
平成30年1月
白虎隊とは
会津藩の藩祖、保科正之(ほしな・まさゆき)公は、徳川二代将軍秀忠の子で、「家訓十五箇条」を残し、代々受け継がれていました。そこには徳川将軍家に忠勤をつくせとの文言もありました。三代藩主正容(まさかた)公の時に、松平姓を名乗るようになり、会津松平家は「御三家」につぐ「御家門」という家格を持っていました。
幕末、江戸幕府の力が衰えると、京都の治安の回復のために「京都守護職」が創設され、会津藩に白羽の矢が立ちました。藩内では「薪を背負って火を消しにいくようなもの」と反対意見が多数を占め、九代藩主松平容保(まつだいら・かたもり)公も固辞していましたが、幕府の重臣達は強引に会津藩に引き受けさせました。会津藩は外交政策をめぐっての朝廷、幕府、諸大名の主導権争いに巻き込まれてしまったのです。(文久2(1862)年)
慶応4(1868)年1月、大政奉還後の権力争いから、「戊辰(ぼしん)戦争」という国内を二分する大きな戦争になりました。薩摩、長州藩などの新政府軍と、会津、桑名、庄内藩などの旧幕府軍との戦いになりました。
会津藩の軍制は、当時交流のあったフランスの軍制に習い年齢別に編成され、中国の故事で「方角の守護神」とされていた空想上の動物の名前、玄武(げんぶ)、青龍(せいりゅう)、朱雀(すざく・しゅじゃく)、白虎(びゃっこ)を隊名につけました。(この「四神」は奈良県のキトラ古墳の壁画に描かれていたことで近年有名です)
玄武隊(50歳以上)、青龍隊(36歳から49歳)、朱雀隊(18歳から35歳)、白虎隊(16,17歳)に大きく分けられ、さらに身分により高い方から、士中(しちゅう)、寄合(よりあい)、足軽隊に分けられていました。
「白虎隊」は約340名おり、身分により「士中一、二番」「寄合一、二番」「足軽隊」の5隊に分けられていました。この中の「士中二番隊」42名が、慶応4年8月23日(太陽暦では10月8日相当)に、猪苗代湖近くの「戸ノ口原」で戦いましたが退却を余儀なくされ、うち20名(人数には諸説あり。他所での戦死者も飯盛山での自刃(じじん)者に含まれている模様)が、飯盛山に逃れてきましたが、城下で発生していた戦火を見て、もはや会津に勝ち目無しと思い、敵の手にかかるよりはと、自刃したのです。(理由には諸説あり)元号が明治に変わる16日前の出来事でした。
この時、飯沼貞吉だけが地元の人に助けられたため、この話が全国的に有名になりました。(「白虎隊」全体では85%にあたる290名が生き延びています)その後、籠城戦を1ヶ月戦いましたが、最終的には会津藩は降伏しました。
飯沼と同じ「士中二番隊」の隊士であった、酒井峰治(さかい・みねじ 1853〜1932)の手記が近年発見されましたが(展示品案内参照)、酒井は生前当時のことは、家族にはほとんど話さなかったそうです。彼らは少年の日の深い心の傷を終生抱えていたのでした。
「士中二番隊」の行動については、生き延びた当事者の証言に食い違いが多い上に、当事者が明治中期以降の「白虎隊」に対する世間の評価に、かなり配慮している節があることから、現時点では断定的な物言いは避けるべきと、当館では考えています。
研究家やマスコミの方には、「真実」「真相」という言葉を軽々しく使っていただきたくありません。紙に書かれていることがすべて事実とは限らないのですが、一部の方には理解していただけないのが残念です。尚、原新太郎と原マ三郎は別人です。(明治時代の名簿に別々の住所で載っています)
個人的には、「辰のまぼろし」(柴五三郎著・会津図書館蔵)の記述が、比較的事実に近いのではと考えていますが、、、。大人の将校は戦況不利と判断し、早い段階で退却命令を出したものの、納得がいかない一部の隊士が反抗したために、途中でバラバラになったのではないでしょうか?
そもそも、斥候に出ていた原田克吉以外の大人の将校4名全員が、戦闘開始時に部隊を離れていたとは考えにくく、「士中二番隊」が単独で敵の大軍を迎え撃つ構図も無理があります。街道を挟んでの友軍との連携を考えるのが自然です。どの証言を信じるかは人それぞれですが、公の場での発言には慎重さが求められます。
飯沼貞吉が降伏後、長州に連れて行かれたという話も、懐疑的に見ています。東京で謹慎している会津藩士の「人別」を、会津藩士・山田善八が、明治2年11月に書き写した文書が当館にありますが、山田が謹慎していた「護国寺」のところに、飯沼時衛と貞吉の名前があります。
山田がその場にいない人物の名前をわざわざ書くとは考えにくく、脱走人の名前は別になっていますので、飯沼貞吉は父親と一緒にずっと東京にいた可能性があり、あの話を事実と断定してしまうのは、いかがなものでしょうか?他にも現地の伝承と矛盾する話は、会津側に複数あります。
現地には450万円もかけて立派な記念碑が建てられたそうですが、人違いの可能性は無いのでしょうか?ウィキにもあたかも事実であるかのように書かれてしまい、大変困惑しています。ご子孫の方の顕彰活動に口を挟むのは心苦しいのですが、あまりにも当館に問い合わせが多いため、一言書かせていただきました。ご容赦下さい。
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